昭和49年10月20日 朝の御理解



 御神訓 一、「子を産むは、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵む所ぞ。」
                                                                                 今の合楽で神様のお働きによらなければ、言うなら表行から心行。自力から他力と言う様な、此処に初めて限りないおかげに継がる事が出来る。人間の力と云う物はもう限りがある。その限りのある力に見限りを付ける。本当言うたら自分の無力さ加減と云う物が分かる。神様のおかげを頂かなければ、実は此処ちょっと動けんのだと言う様な見地から、神様のおかげに委ね任せる。神様のおかげによると、そうするとただ神様にお任せをしとけば良いと言う様な無気力なものであってはならない。
 例えば出産の場合であっても、次の御神訓に懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよと仰る。真の帯をすると云う事が矢張り度胸もいるし同時に真の帯。所謂本気で信心の帯をせねばならん。出産の時よかりものによかるより神に心任せよかれよ。あれに頼りこれに頼りすると云う事が、これは出産の時だけではありませんけれども、神様一心とお縋りする所から生まれて来る安心それが有難い。神様一心にお縋りをする。そこから生まれて来る安心ですから実を言うたら、並大抵の事ではない様に思います。
 一心におすがりをしとっても、末だ不安である。心配であるというのは、結局真の信心が足りん証拠です。一心に神様にお縋りをする。そこからです言うならば安心というと、まちっと言葉を付けるならば、ままよという心が生まれて来る。神様一心にお縋りさして頂いとりますね。もう右左はあなたにお任せ致しますと、そういう心が私は安心だと思う。所謂船諸共と云う気になれば、楽というのがそれです。だから船諸共になれば、楽というそのそこまでが、矢張り信心です。
 今度御本部から頂いて参りました、御教えの集めてあるのに、合楽で私が神様から頂いた御教えが、ここに出ております。それには「人力に見限りを付け神力に縋れ。人力自ら湧く。」と、ここが素晴らしい所です。人力に人間の力と云う物に見限りを付ける。そこに神力に縋ると云う事いわゆる縋る。任せるというか。一心に縋ると云う事。そこから人力自ら湧くと言うところが、素晴らしい。そこから例えば人間の知恵力に見限りを付けて、神様一心に縋る。
 一心に縋るところから、度胸が出来て来る。ままよという心が生まれて来る。もう親先生のお取次を頂いての事であるから、もう右左はあなたにお任せします。是が人力なんです。もうそれからすごい力が湧いて来る。だから此処ん所を、人力に見限りを付けて、神様にお縋りをする。神力に縋る。その後に湧いて来る一つのファイトの様な物神様に向ける。そこから一生懸命のお縋り。今までとは言うならば、神様にお参りをしとっても、お参りの態度姿勢が変わって来る。
 昨日手紙が来てる。神戸の松田さんからです。光郎君というのが、もう来春は高校ですから、高校の準備を一生懸命していると。毎日大変おかげを頂いている事が、一杯書いて御座います。もう来年高校ですから十何才でしょうか。この人が生まれる時がそうです、病院に入院さして頂いた。それを何か大変な、難しいお産で、子供は切ってでも出さんならん様な事だった。
 だから私が申しました。「そげな事言うごとあるならもう連れて帰って来なさい」と。先生もここの御信者ですからね。小野先生ですから「先生がそげな事言うごとあるなら、もう連れて帰って来い」と申しました。それから又帰って来ました。帰ってから数日でしたでしょうか。おかげで安産のおかげを頂い今来春は高校の試験に、一生懸命熱中しとるという光郎君の事なのです。もう大変な勇気が要ったと思うですね。
 医者からいくらなんでも、産婦人科の病院に入院して、そこで産ましてもらう筈じゃった所が、大変難しい事を言うから、言うならば、信心の生き方でない事を言うから、そんな事いうとんならもう連れて《帰って》来いと。その時に帰って来るところがです。私は限りない力が湧いて来たと思うです。もうもう医者にも頼らん。金にも頼らん。ただ神様に、一心に縋ると言う事になった訳です。これが人力自ら湧いた訳です。そこに安産のおかげを頂いて、もうそれこそ、玉の様な息子でした。
 丁度昨日お礼のお届けがあっとりますが、結局本当いうたら、産婆さんとかお医者さんの力で産ましてもらうのじゃない。自分の体の中にある所の力が、自ら湧いて来るのです。それを人力と最後に言う所の人力、自ら湧いて来る気張る力が自ら湧いて来る。そこに至った時に、私はこの自力から他力を悟った信心と云う事が言えると思います。だから他力というのは、只済ませときゃ、自分はじっとしとけば良いというのでは、決してないのです。それ程に言うならば、なら合楽二十五年間の信心がです。
 それは他力でも自力でも、両方片一方だけじゃなかったと思うですね。言うならば、一生懸命修行さして、水を掛かったり、断食をしたりして、皆さんが良く修行致しました。だからそれでは、自分の力みであって、自ら湧いて来る力みじゃないですから、断食を止めると又ストーッと、信心を落してしまう人がある。さあ3×7。二十一日間なら二十一日間の、山の滝の水を頂きに行く。その時は張り詰めとるから、心もとっても清々しく、神様に向かうけれども、止めた途端からストッと信心は緩んでしまう。
 そういう言わば信心からです。そういう言うならば自分で力んだ所の、自分の力みから生まれて来る。自力的な信心をもう言うならば合楽では全廃した。もうそういう信者さんが一人でもおってはならない。教祖様もこの方の道は火や水の行ではない。家業の業だと家業そのものが信心になっとかなければならないとか、表行よりは心行をせよ。表に現われて来る所の形の行よりも心の行をせよと。だから金光様の信心は、容易と云う事ではない。心行そのものが実は難しいのだ。難しい。だから心行そのものがです。
 これには表行を止めたから、これはある非常にまぁ何というですかね。とうにんさんというですか。願行の表行の出来る人があってね。その方が山から降りて来られると、沢山人が助かった。そして少し効力がなくなると又山に登んなさる。山に登んなさると又力を受けて来なさる。そうすると又人が助かりますという人がです。ある時参って来る女の信者に手を付けた。それからと云う物はもう全然人が助からなくなった。
 だから表行と云う物はねそういう言うならば、表行一本で行くのだと云う事はそう云う物なのです。子を産むはわが力で産むと思うならわが力でやると云う事は、たかが知れておるしかもその自分の力にです自信を失ったらそれでおしまいです。はあ自分は神様仏様を拝む身でありながらこう云う悪い事。こう云う汚い事をしたと思うただけでもう神様へ通じなくなってしまった。その点他力になって来ると素晴らしいどう云う汚い事であろうか。どう云う事であろうがです。
 それその事が私の心を清める事になるのです。所謂御の字を付ける生き方なんです。御事柄としておかげを頂くから、まあこの事は大変難しい事ですから、ちょっと置きますけれども、自力と云う物はその自力の頑張りの効いておる時だけは効果があるけれども、頑張る気がなくなったら、もうおしまいです。地に落ちてしまうのです。そういう意味でです他力本願。他力本願というても他力本願。
 とにかくあなた任せというだけではいけない。自分の自力と云う物に、自分の無力さと云う物を悟らしてもろうて、自力と云う物を捨て切って捨て切って、神様にゆだね任せせよ。その度胸の向こうにです。自ら湧いて来るという神力。言うならばまあ気張る心ですね。まあ男の方は、出産のあれがないから、分かりませんですけれども、ならお便所に行ってからというてもよいです。一つの催しと云う物がなからなければ、気張られないでしょう。催しが起こって来る。だから気張る。
 気張るから言うならば、気持ちよく排便する事が出来る様に、あれは自分の力じゃないです。そういう力に委ねる。そういう力をいわば自力、自ら湧くという信心。合楽言うならば示現活動が盛りですね。けれどもね、神様がねもう先に立って、例えば昨日はあちらの、矢部の後藤さんの所で、初めて共励会の様な事を聞かれた。佐田さん達の御一家。元はあちらにおられた女中さんですから、それが中々熱心にお参りして来る。先だってから火事にあった。もう自分が留守中だったから、丸焼けだった。
 子供が一人留守番していたが、子供が火遊びをしてから、後は桧山のそれこそ、どこまで続くか分からない程しの山が、ずーっと植林してある山があった。所が村内の人達が、燃え上ってから、桧にパーッと燃え移った時には、どうなるだろうかと思うたけれども、それこそ水が下にザーッと落ちる様に火の粉が落ちてしまったと云う事です。おかげで一軒だけで、山も焼かずに済んだ。まあその前後のおかげと云う物が、丁度学校の先生が、夫婦者の方。あるその村のお家です。
 立派な小さなお家ですけど、立派なお家でモダンキッチンですか。テレビなんかある。だからその家に入って良いという事で、それに入らせて頂いた。もう返って良い家に住んだ。それからその後に分かったんですけれども、嫁さんが御主人にこっそりと、もうそれこそ、ほんのちょっと寸前にですね。火災保険にかかっとった。それはやっぱり保険にかかってすぐ焼けたんですから色々やっぱり、問題もあったでしょうけれどもとにかく働きに行っておった後ですから。
 アリバイははっきりしてるですから、おかげでそれもそれから下って来る様になった。まあ村中からの同情が集まって、もうそれこそ背広着てピシャッとして、主人を今まで着た事のない様な、良い洋服とか着物やら、返って沢山頂いたと言うて、喜んでいる。おかげを頂いて本当にあんた方が金光様の信心に、しなさるからこげなおかげを頂いたという風に、村内の人が言われる。
 山の中の山の中なんですらしいです。こちらから昨日末永先生が行って、あちらで昨夜、私遅う下関の広雄先生が来とる筈ですから、昨夜ここにお礼に出て来てから、あちらへ廻ったらまだ、起きておられたから、話をさして頂いたんですけれども、その時一緒に付いて行っておった。今御本部の方におられる方が、今ここで大祭からずっとおられます。その方も一緒に行った。その方がとにかく行って、感動した事はです。
 まあ大した大きな、その後に実った家ですから、大した家じゃないでしょうけれども、今までの家よりも、よっぽど立派なお家が建った。そのお家に行って大変感動した。天地書付がちゃんと奉斉してあって、それから「実意を込めて、すべてを大切に」というのが、額に入れてあって、御本部で求めてみえた。賀真というお神酒が御神前にお供えしてあって、もうこういう山の中に、こういう山奥に金光様の御比礼が、この様にして輝いてると思うたら、それが有難うしてならじゃったと、言うております。
 その村内の中に、本部から来ておる人が、知っておる人が一人おったというのです。十人ばかり集まっとるとの中に、もう神様のもう不思議な働きには恐れ入ってしまうとこういう。これは言うならば自力で出来る事ではない。とにかくそういう神様の所謂示現活動が起こって、神様が何時も先頭に立って働いて御座る。ですから神様がお働き下さるのですから、こっちはじっとしておって良いと云う事ではない。
 所謂真の帯をせよという。信心のしっかり帯をさして頂いてです。愈々自力に見限りを付けて、神力に一心に縋ると云う事。そこから次に湧いて来る自力。それが限りないおかげに繋がる。だからこの辺の所を、よく一つ頂いとかにゃいかん。他力の信心といえば、ただ任せときゃーと、そげな難しい修行をせんでもよかと。だから金光様の信心は楽だと。その楽だと言う様な事ではない。
 自力に見限りを付けると云う事に、先ず度胸がいる。そこに言うなら、神様が先頭に立って働いて下さる働きが生まれて来る。そしてそれから湧いて来る物が、自力自ら湧いて来る。その神力自ら湧いて来るという、そのおかげがです。限りないおかげ。それを今日の御理解で申しますと、自ら湧いて来る所のいきみである。出産をするのに、自ら湧いて来る。それはもう、まぁ凄じい働きに繋がって来る。
 人間力では及ばない力に繋がって行く。皆親神の恵む所ぞ、その親神様のお恵みであると言う事を、実感する生活。一切が神様の御恩恵の中にあるという生活。所謂実感をもって、そこが頂けれる様になる為にです。人力自ら湧くと言う信心をさせて頂いて、初めて御恩恵を、御恩恵と自分の心の中に、キャッチせれる。実感出来れる。信心生活が出来ると思う。「人力に見限りを付けて、神力に縋れ。人力自ら湧く」その自ら湧く、人力はもうスデに、人力ではないと言う事です。
   どうぞ。